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弓浜絣 ‐工房ゆみはま・嶋田悦子‐

鳥取県西部、米子から境港にかけての細長い約20㎞の陸橋「弓ヶ浜(ゆみがはま)」が弓浜絣(ゆみはまがすり)のふるさとです。元々は自給用衣料として、また農家の副業として土地の人々に受け継がれてきた綿織物。藍と白の美しさ、素朴な絣柄の味わいが人気となり、江戸末期から大正にかけて生産の最盛期を迎えます。しかしその後工業化や時代の流れと共に次第に衰退していきました。そんな弓浜絣の復興に人生を掛けてきた人、その人が嶋田悦子さんです。

織との出会い

工房ゆみはまにて

境港出身の嶋田さんはご主人と結婚後、1953年に上京。そこで「織物」に目覚めます。

「織の仕事との出会いは東京でした。東京の街頭で織り機の宣伝をしていましてね。今思うと簡単な物でしたけれど、なぜかそれが目に留まって。『自分で布が織れるなんてすばらしいな』そんな風に思って…これがきっかけでした。
それから主人*に相談すると柳悦孝先生*と、悦博先生に相談してくれて、それから先生方の元で織の勉強をはじめました。終戦直後でしたね。織も絣も何も知らない頃でしたけど、毎日先生の元に通いました。」

*ご主人の太平さんは東京のたくみ工藝に勤務。
*民芸運動の父、柳宗悦氏の甥

弓浜絣の復興へ

収集された古い弓浜絣

嶋田さんが織に目覚めた戦後、弓浜絣は風前のともしびでした。そんな弓浜絣の復興への道のりは、ご主人の一言がきっかけだったそうです。

「ある時、先生の元に来た主人が『先生、浜(弓浜)にはいい絣があるんですよ』と言いましてね。先生ももちろんご存知でしたから、とんとん拍子に話が進み、それじゃあやってみようと言う話になって…(笑)
そうは言ったものの、もう戦後には弓浜絣はほとんど作られていませんでした。私は実家が呉服屋でしたから、まず母に相談したんです。すると、母が近所を駆け回って、地元の人たちから弓浜絣を集めてくれたんです。」

こうして動き出した復興への道。しかし実際に反物を仕上げるまでには大変な苦労がありました。

「納屋にしまってあった機をひっぱりだして。種糸屋さんをさがして。親戚中の年寄りを集めて糸を引いてもらって(笑)本当に母がよく頑張ってくれました。そうして何とか最初の1反を仕上げました。
しばらくすると、白洲正子さんが、ご自身のお店『銀座こうげい』で浜の絣(弓浜絣)を扱い始めてくだいました。手伝ってくれていた老人たちは『東京で絣が売れるんだ』と大変喜びました。そうしてもう一度、弓浜絣が世の中に出て行ったんです」

昭和44年にはご主人と共に弓ヶ浜に帰郷。「工房ゆみはま」を立ち上げ、以後この地で、絣の製作に没頭していきます。

伯州綿(はくしゅうめん)との出会い

伯州綿と茶綿

砂地の多い鳥取県西部では、昔から綿の栽培が盛んに行われてきました。伯耆国(ほうきのくに)と呼ばれたこの地方で栽培された綿は伯州綿と呼ばれ、他の和綿にはない弾力のある風合いが特徴です。

「父が嫁入り前の私に布団を作ってくれたんです。東京に住んでいた時、その布団を打ち直しに出したんです。そしたら、布団屋さんが『奥さん、これなんて綿だい?』って尋ねられたんです。その時にはっと気づきました。きっとこれは伯州綿なんだと。今でもその綿は私の布団に入っていますよ。」

帰郷後、嶋田さんは綿の栽培を本格的に始めます。様々な品種を試していくうちに、改めて伯州綿の魅力に気づかされます。

「色々な綿を試したんですけれど、どうもこの土地の在来種が一番しっくりくる。なんていいますか、出来上がった綿の力が違うんです。小さいけれど力が満ちている。
そして工房の卒業生たちが地元に帰り、私が渡した種で収穫した綿を送ってくれるんですが、どうもこれも違うんです。その時ね、あぁやっぱり土地が違うと出来るものも違う。伯州綿はこの土地でしか育たないのだと気づかされました。」

近年では茶綿(白茶色の綿)による弓浜絣も制作されています。

藍をたてる

工房ゆみはまの染場

弓浜絣を語るうえで欠かせないのが藍の存在です。古くから日本人の身近な染料として根付いてきた藍。ですが嶋田さんが弓浜絣を織り始めた頃には、多くの紺屋で「ピュア」と呼ばれる化学藍が主流となっていました。

「浜の絣に取り掛かった時、柳先生から『せめて藍の割建て(わりだて)*はできないかな』とご提案があったんです。私も明治中期ごろの浜の絣の藍を表現できたらいいなと思っていましたから…やってみることにしたんです。
ところが当時この辺りに残っていた紺屋さんはほとんどがピュア(化学藍)でした。「割建て」でとお願いしても、受け入れて下さるところもなく、結局自分たちでたてる事になったんです。
始めたはいいものの、最初はとにかく失敗つづきでね。小さな容器を藍甕に代用したり、正藍と化学藍の割合を変えて見たり、本当に色々と試行錯誤しましたね。長い時間をかけて、そして色々な方のお力添えで、ようやく昔ながらの灰汁発酵建て*で『藍が建つ』ようになりました。少しかもしれませんが、私が表現したいと思っていた昔の浜の絣に近づけたように思います。」

*割建て…発酵建ての藍に化学藍を混ぜて建てる方法。
*灰汁発酵建て…江戸時代頃から伝わる藍(すくも)に石灰などを混ぜて発酵させる方法。

制作工程【糸を紡ぐ】

糸紡ぎの様子

畑から収穫された綿花は、種を取り、ほぐし、丸め、糸車で撚りを掛けながら糸に紡いでいきます。

右手で糸車を回し、左手で糸の撚りや細さ張り具合を細かく調整しながら引いていきます。着心地を大きく左右する大切な作業です。

制作工程【絣作り】

種糸つくりの様子

弓浜絣の特徴ともいえるのが、味わいのある絣文様です。様々な吉祥文様は家族の安全や健康を祈り、織り上げられたもの。

そしてもう一つの特徴が「種糸(たねいと)」と呼ばれる絣糸の作り方です。種糸台に張った糸に型紙を合せ、その上から墨で印をつけて行きます。この印をつけた種糸を整経した糸と合わせ、絣を括る目印にしていきます。

目印に沿って、一つ一つ防染の為の“手括り”が行われます。根気と集中力のいる工程です。

制作工程【機織】

機に向かう嶋田さん

綿花の栽培から、糸紡、絣括り、糸染、整経等、長い時間を経てようやく機に糸がかかります。工房ゆみはまでは、高機と呼ばれる手織り機を使い、織が進められています。

「一生勉強ですよ。織るときはもちろん、括りや整経もきちんとしないといい絣にはなりません。本当に奥が深い。だからね、一生勉強(笑) 」

また特徴的なのは、一般的な絹織物の高機と比べると「間先」と呼ばれる経糸を張る部分が短く、非常にコンパクトな機が使われています。

「絹と綿では糸の伸縮性が違うんです。だから絹物の機のように間先を長くする必要がないの。綜絖も少ないから。この機は確か私がこちらに帰ってきた時から使っています。今の機と比べると小さいでしょう。昔の人は小柄だったのねぇ(笑)」

弓浜絣を未来へ

現在、弓浜絣は経済産業大臣指定の伝統工芸品、嶋田さんは県無形文化財保持者に指定されています。それでも他の産地と同様に、生産者の高齢化、後継者不足は深刻な問題です。

近年では「工房ゆみはま」での仕事は主に娘夫婦に任せ、「弓浜絣伝承館」で後進の指導を熱心に行われています。

「弓浜絣も伯州綿も、この土地とこの土地で暮らす人々が培ってきたものです。そして綿に向き合う時、私が一番大切にするのは心です。そんなこの土地の心を絶やさない様に、これからも伝えて守っていければ幸せです。」

文・写真/高橋直希

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